· 

087 この1年で変わったこと How I've changed after moving to the island

こんにちは、答志島に移住して1年2ヵ月経ちました、地域おこし協力隊の五十嵐ちひろです。引っ越してきてすぐの頃と今とで感じ方、やり方の変わったこと、そうでもないことがあるので、書き出してみます。

言葉が分かるようになった

答志島の方言は独特です。お年寄りにバリバリの答志弁でしゃべられたら、鳥羽市の人でも分からないことが多々あるほど。更にわたしは関東出身なので、イントネーションから全く違い、大きなハンデを背負っていました。最初の頃は言葉を聞き取るのだけでも一苦労。一日中脳を使っているので、夜になると信じられないくらい眠くなったものです。これは留学したばかりの頃にした体験と全く同じなので、答志弁はわたしにとって外国語と同じくらい理解が困難な言語だったと言えます。

市場でのやりとり、漁の話はまた違う言語って感じで難しい。
市場でのやりとり、漁の話はまた違う言語って感じで難しい。

現在では答志、和具ではちゃんと会話が成り立つし、島の人同士で話していることも分かるようになってきました。なんだったら、自分が話すときのイントネーションもこちらの人のそれに近づいていると思います。ただ、桃取弁はまだ難しくて、答志や和具の出身の人でも桃取の言葉はわからん、と言うので、これは仕方ないことなのかな、と思っています。

人に頼むのが上手になった

島では人々が助け合って生きています。頼んだり頼まれたりが日常的に起こっています。歩いてゴミ捨てに向かう人をバイクで追い越すときは、その人のゴミもゴミ捨て場に持って行くし、免許を持っていない人と定期船に乗り合わせたら、自分の車で送って行くし、ちょっと工具を貸して、とか、少しの間子ども見といて、とか、そんな頼み事も日常茶飯事です。

 

最初のうちは「頼むなんて悪いなあ」とか「何もお返しできないしなあ」と思っていたけど、みんな頼まれるのに慣れているから迷惑なんて思わないし、見返りも求めていないんですよね。だから最近は、「答志行最終の船に乗れなかったから桃取まで迎えに来て」って頼めるようになったし「カマが必要だけど持ってなかったから、納屋から借りといたわ」と気楽に言えるようになりました。今後はわたし自身が頼まれる回数が増えてくればいいなあ、と思います。

料理のレパートリーが増えた

島で貰う食材といえば当然魚介類がほとんどです。イナダ、メバル、アジ、タコ、イカ、サザエ、エビなど、さまざまな物をいただきました。ほぼすべてが、島に住まなかったら自らの手で調理はしないであろう物です。もうどうやって下処理したらいいのやら、味付けしたらいいのやら分からないものも、くれた人からのアドバイス、YouTube、COOKPADなどを手掛かりにどうにか食べられる物にしてきました。しかし未だに魚をうまくおろすことはできません。(食べるだけの状態にしてくれる人も多いのです。ありがたや。)練習するのにちょうどいいサイズの物が良い感じの頻度で手に入るといいんだけど~、なんて贅沢な願望を持っています。

メバルを使ったアクアパッツァ的な料理。
メバルを使ったアクアパッツァ的な料理。

太った

まずいもん食べて太ったらやるせないけど、美味いもん食べて太るのは仕方ないかな~、って。

自分の両親を、お父さん、お母さんと言うようになった

島の人は、自分自身の親のことを話すとき「家のお父さん」や「おら(私)のお母さん」という風に呼びます。「父」「母」「おやじ」「おふくろ」と言うのはほとんど聞きません。これがこの島の習慣なのでしょう。わたしもそれに慣れてしまったので、島の中では「お父さんは~」「お母さんが~」と言うようになりました。外では不自然なので「父」「母」と言うようにしていますが、いつかうっかり忘れてしまいそうです。

 

改めてこんなことを考えてみると、ライフスタイルや考え方が少しずつ島民に近づいているのかなー、と思います。

海女ちゃんTシャツ
答志島はオリジナルTシャツであふれています。これは海女ちゃんTシャツ。

一方変わっていないことと言えば、未だにわたしは島の人の制服とも言えるジャージやヤッケを着ません。でも、島でよく見かけるオリジナルTシャツで過ごすことは増えました。「ジャージは好みじゃないんで、多分この先も着ません」と言ってはいるけど、もしかしたらいずれ何種類ものジャージを持つことになるのかも・・・?