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164 移住者と言葉とアイデンティティ My language my identity

こんにちは、答志島のいがちゃんこと五十嵐ちひろです。これまで何度もこのブログで答志弁の紹介をしてきましたが、実際わたしが答志弁を話すかというと、「はい」とも言えるし、「いいえ」とも言えます。

 

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答志島の人と話すときはなるべく答志弁、島の外に出たら、三重弁と使い分けているつもりなのですが、やっぱりどこかに関東訛りが残っているらしく、夫にときどきイントネーションが変と言われて、自分の話す言葉とアイデンティティについて考え出してしまいました。

海と漁船と花火
先日答志島で打ち上げられた龍神花火のお裾分けです

移住者が話す言葉

さて、わたしの周りの人たちを見てみると、三重に住む人に限らず、地域おこし協力隊として移住した人の多くはその地域の言葉には染まらずに、自分の出身地の言葉を話す人が多いように感じます。一方、結婚や配偶者の転勤を機に住む場所が変わった人なんかは、今住んでいる地域の方言を話していたり、出身地の言葉と混ざっていたりする人が多い気がします。

 

わたしの母語は日本語の標準語なので、国内どこへ行っても通じる言葉だし、そのままその言葉を話し続けても良かったはずなんですが、方言を取り入れて話すようになったのには3つの理由があります。

わたしが方言を話そうとする理由

まず1つめは、地域に馴染みたかったから。ちょっとでもわたしが答志弁を話すと喜んでもらえるので、それが嬉しくてどんどん口に出すようになりました。イントネーションもやっぱり、こっちの人たちに合わせた方が親しみを感じてもらえるような気がしたんです。

 

2つめは、方言に憧れがあったこと!標準語圏あるあるです。上京してもずっと関西弁で話す大阪出身の人や、ときどき知らない単語が出てきちゃう静岡出身の友だち、本人は標準語のつもりなのに所々なんか訛っている栃木出身の後輩とかが羨ましかった。実家の水戸で過ごした後10日間は茨城弁が抜けない母もなんだか誇らしかった。標準語以外の日本語を操れるようになりたいな、と思ったのが2つめの理由です。

 

3つめは意識しなくてもそうなっちゃうから。「標準語話者は、相手の話す方言がわからなくても、相手にはこちらの話が通じる」とよく言われるんですが、わたしの経験上、そうとも言い切れないです。長いセンテンスで話していればそうでもないのですが、何か質問されて、単語だけで返すとイントネーションが違うせいで通じない、ということが多々あります。結局、方言で話せた方が、コミュニケーションが円滑になるのでその話し方が馴染んでくるのでした。それに長時間一緒に過ごす夫の言葉が三重弁なので、単純にそれがうつる、というのもあります。

 

標準語スキルの衰え

それで困るのが、関東の友人や親戚と会うときです。彼らの中のイメージではわたしは標準語を話す生粋の埼玉県民なのに、西の言葉で話すのは戸惑わせてしまわないかと、余計な気を使ってしまいますし、何よりなんだか気恥ずかしいのです。なので、言語スイッチを切り替えて、標準語を話すようにしているのですが、最近このスイッチがバカになってしまったので困っています。なんと、わたしにとって自然体な言葉は、もはや標準語よりも「完璧ではないイントネーションの答志弁まじり三重弁」らしいのです。

 

母語であるはずの標準語が話せなくなっている自分には、少なからずショックを受けましたし、なんだかアイデンティティが揺らぐような気持ちになりました。

ごはん、かきあげ、メバルの煮付け、味噌汁、ちりめん山椒、漬物
マルト食堂のさっきまで生きていたメバル定食

言葉そのものがわたしの人生でありアイデンティティ

それでわたしは言語学者でもなんでもないのですが、言語について考えてみるんです。例えば、日本語ひとつとっても時代によってどんどん言葉って変わっていっているんですよね。1964年の東京オリンピックの映像を見ると、標準語を話しているアナウンサーの言葉がなんとなく古臭く感じられたり、中学校の国語で間違っていると言われた文法や誤用と言われた読み方が今ではニュースでも使われるようになっていたり、若者言葉やネットスラングが誰でも使う言葉になったり、と短い間にも変化しています。

 

人ひとりが話す言葉も、経験によって変わっていくのが当たり前だと受け入れればいいんですね。わたしの妹は大阪に住んでいるので、大阪弁を話すのですが、夫が三重県出身なの大阪の人だったら「〜せえへん」と言うところを「〜しやん」と言うんですよ。これって彼女の人生を反映した喋り方ですよね。

 

移住前のわたし自身の人生を振り返ってみても、母が若い頃は茨城弁を話すことがよくあったので、知らず知らずのうちに覚えた茨城弁を標準語と思って話していたり、外国語を勉強した影響で不可疑問文に対してイエス・ノーを逆に答えてしまうようになったり、わたしの話す言葉は最初からいわゆる「完璧な標準語」ではなかったんです。

 

つまり、今話している言葉が今の自分を表すアイデンティティなんだなあ、と今パソコンに向かってこの記事を書いているこの瞬間に、納得することができました。これからもわたしの人生で培われたわたしだけの日本語を喋るいがちゃんでいようと思います。