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071 海賊大名ここに眠る Here lies the Pirate General

こんにちは、答志島のいがちゃんこと五十嵐ちひろです。突然ですがみなさん、歴史って好きですか?正直に言うとわたしは歴史は苦手分野です。数年前の大河ドラマ「真田丸」にハマって、ちょっとだけ戦国時代後期のことが分かるようになったのですが、真田幸村の活躍する少し前に活躍した武将に九鬼嘉隆(くきよしたか)という人がいることを、ここ答志島に来てから知りました。

九鬼嘉隆という人

九鬼嘉隆は織田家筆頭の水軍、九鬼水軍を率いた武将で、後に「海賊大名」とも呼ばれました。その最期の地が答志島であるため、史跡がいくつか残っています。島の人たちは親しみをこめて、九鬼さん、また嘉隆さんと呼びます。嘉隆さんが生まれたのは天文11年(1542年)で徳川家康と同い年です。

九鬼嘉隆の肖像
嘉隆さんの死後に描かれたもの

志摩を追われる

嘉隆さんが成人した頃、九鬼氏の家督は兄の浄隆(きよたか)が継いでいました。当時伊勢志摩地域には多くの地頭がいて、大体みんな海賊だったんですね。九鬼さんもそのうちの一派だったわけなのですが、他の地頭と比べてかなり強かったことから、関係はピリピリしていたようです。そしてついには九鬼さん以外の地頭たちが、当時の国司であった北畠氏の力を借りて嘉隆さんのお兄さんの居城であった田城城(たじょうじょう)を攻め破りました。ここで潰しておかないと取り返しのつかないことになる、とみんなが思っていたんでしょうね。

 

当時の当主であった浄隆は田城城攻めの後に病死、家督はその息子、嘉隆さんからは甥にあたる澄隆(すみたか)が継ぎましたが、継いだと言っても城を追われ、家臣たちも離散した状態での後継ぎでした。永禄3年(1560)のことです。九鬼家の命運ここに尽きたり、と誰もが思ったことでしょう。

織田家の家臣となる

ところが九鬼さんのすごさは伊勢志摩の地頭たちや北畠氏の予想を上回ります。城を追われ逃げて身を潜めたのちに、1560年の桶狭間の戦いに勝ってバリバリ活躍中だった織田信長に取り入ることに成功しました。当時伊勢攻略を目指していた織田信長と、北畠氏を倒して九鬼家を再興したかった嘉隆さんの利害が一致したんです。そして、織田家の水軍としての九鬼水軍を誕生させます。

鳥羽城三の丸跡
鳥羽市内には、鳥羽城跡に城壁が残っています。

一国の主、そして九鬼家の当主に

織田信長は北畠氏と和睦しますが、嘉隆さんは憎き地頭たちを次々倒し、その強さを信長に認めさせることとなりました。そして志摩国の主となります。その後に起こった長島一向一揆では大いに活躍し、織田家の家臣として重宝されるようになったのです。

 

天正4年(1576)に織田家が毛利水軍や村上水軍などと戦った第一次木津川口の戦いにおいて、相手方が焙烙玉や焙烙火矢といった火気を使用したために、多くの船を焼かれたことを受け、嘉隆さんは、燃えない船「鉄甲船」を考案します。信長もこの船の造船に大きな期待を持っていたため、支援を惜しみませんでした。それどころか、ちょっと船の設計に口を出したりもしていたようですよ。「船にはお風呂をつけてね」とか。この鉄甲船が活躍し、天正6年(1578)第二次木津川口の戦いでは毛利水軍に勝利。九鬼水軍は名実ともに最強の水軍となりました。

 

この海戦での大活躍もあってか、信長は嘉隆さんに家督を継ぐことを命じ、若き甥から当主の座を奪うこととなります。一説には信長の死後、嘉隆が甥澄隆を暗殺したとされていますが、わたしはこの信長の命による説を支持しています。当時嘉隆さんは一国の主ではありましたが、九鬼家では分家の身でした。それでは実力に身分が伴わないということで、信長が無理に跡目をとらせたとしても不思議ではありません。

秀吉に仕える

信長の死後、嘉隆さんは豊臣秀吉の家臣となり、かの朝鮮出兵の際に指揮を執りました。秀吉が名付けたと言われている日本で最初の戦艦「日本丸」に乗っていた大将が九鬼嘉隆だったのです。結果はご存知の通り、最初こそ優勢に進みましたが、最終的には撤退を余儀なくされました。この敗戦もあって、嘉隆さんは隠居し、家督を息子の守隆さんにゆずりました。

関ヶ原の戦い

しかし、秀吉の死後起こった関ヶ原の戦いにおいて、隠居後たった3年で現役復帰します。色々あって家康が嫌いだった嘉隆さんは西軍石田三成に与したのです。息子守隆さんが家康の進めていた会津征伐から帰ってみると、鳥羽城は西軍についた父に乗っ取られていました。それどころか、嘉隆さんはわざわざ徳川家の旧領である三河を攻めるという暴れ方をしました。

 

それに怒った家康は、守隆さんに鳥羽城奪還を命じます。守隆さんは使いを送り、父の説得を試みますが嘉隆さんは応じませんでした。徳川から目付け役が来ていたために、父子の情をかけることもできず、守隆さんは鳥羽城に(2018年8月22日修正:父子が戦った場所は鳥羽城ではなく船津でであったと言われています。築城から間もなかった鳥羽城を傷つけたくないとの思いがあったのではないでしょうか。)実弾を放ちましたが、一方の嘉隆さんは空砲を撃ったという言い伝えが残っています。

 

父が西軍、息子が東軍に分かれてしまった九鬼家ですが、これはどちらが勝っても家名を存続させるための策であったとも言われています。真田丸を見ていた人ならピンときますね。(真田家も父と次男である幸村が西軍、兄の信之が東軍について、勝った方が負けた方の助命を乞う約束をしていた、というストーリーでした)

九鬼嘉隆の最期

合戦において西軍が敗北すると、嘉隆さんは鳥羽城を放棄し答志島へ逃げました。答志島には娘の一人の嫁ぎ先であった渡辺数馬邸があり、そこを頼って来たのでした。そして現在も残る潮音寺に滞在したと言われています。

 

一方守隆さんは家康に父の助命を嘆願します。守隆さんは東軍で最初の首級をあげたり、海戦で活躍したりと功績を残していましたが、家康はなかなか首を縦には振らなかったようです。ようやく助命が認められると、守隆さんは答志島に使いを送ります。しかし、時すでに遅し。嘉隆さんは洞泉庵という寺にて切腹をしていました。

洞泉庵跡
和具地区内にある洞泉庵跡、現在はコミュニティセンター「九鬼の館」があります
現在の血洗い池
血洗い池:嘉隆切腹の後、そばの池で家臣らが刀を洗うと、みるみる内に水が赤く染まった、という伝説が残っています。

側近の豊田五郎右衛門が、「ご子息がどれだけの功績をあげたとしても、西軍に与した父を持つ家臣を徳川が許すとは思えません、九鬼家のためを思うなら自刃くださいませ」と一刻も早い切腹を促したからであるため、と言われていますが、元より東軍西軍どちらが勝っても九鬼家を存続させることが目的で、隠居した身でありながら参戦した嘉隆さんですから、お家存続のためなら命など惜しくはなかったのではないでしょうか。切腹より前に島の中の潮音寺という寺で得度した、という言い伝えも残っていますから、仮に命が助かってもできるかぎり息子のキャリアの邪魔にならないようにと考えていたのではないかと思います。

九鬼嘉隆の最期8コマ漫画

和具に残された史跡

嘉隆さんの亡骸はすぐに洞泉庵そばに埋葬され、胴塚として残っています。首は、かつての居城であった鳥羽城の見える場所に埋葬して欲しい、という嘉隆さんの遺言によって和具地区内の築上山(つかげやま)山頂に埋葬された、と伝えられています。築上山には首塚があり「大隅大権現」と刻まれた石碑があります。(存命中従五位下・大隅守に叙位されていたため)

九鬼嘉隆の首塚
九鬼嘉隆の首塚
首塚からの展望
当時は鳥羽城、現在は鳥羽の市街地を臨むことのできる高台に、九鬼嘉隆の首塚はある

終わりに

実は九鬼嘉隆についての研究はまだそこまで深くされているわけではありません。後に一族が醜い家督争いのために鳥羽を追われ、さらに2箇所に分家されている(めっちゃ強い水軍を持っていたのに、摂津国三田、丹波国綾部の内陸を与えられることになったこの話もなかなかに興味深いです)ことから、あまり多くの資料が残っていないことも影響しているのだそうです。

 

ここまでのお話では、いくつかの資料に書かれた史実とわたしなりの解釈(妄想とも言う)を交えて、九鬼嘉隆を紹介しました。わたしはこの調査の過程で嘉隆さんのファンになってしまったし、歴史って結構おもしろいじゃん、と感じました。

 

男のロマン詰まった戦国武将・九鬼嘉隆の生涯最後の地、それがこの答志島です。

参考資料

鳥羽ガイドセンター提供資料

答志島史跡探訪のしおり(鳥羽市生涯学習講座郷土学習教室)

中世・志摩国編年実記(吉田兼明)

戦鬼たちの海ー織田水軍の将・九鬼嘉隆 (白石一郎)

戦国武将列伝Ω

Wikipedia各項

戦国未満

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戦国武将ゆかりの地を巡る~戦国武将が祭られている神社をご紹介

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